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スマさん世代の腐った文字書きが好きなものは好きと無駄に叫ぶ

彼岸の日 墓参りのこと

お彼岸の入りの昨日、お寺が多い自宅付近はもう渋滞が発生。家の前のお寺では交通整理も出ていてどこのテーマパークかと、ゴミ捨てに行きながら驚いた。実際これまではこの時期旅行に行っていることが多かったんで、10年目にして知る真実。
最近人気が下火気味のブルーボトルコーヒーさんは墓参り客を見込んで、警備員3人体制で臨んでいる。観光客と墓参客と…静かな住宅とお寺しかない界隈にそんな不思議と浮ついた空気が漂っていた。

今日はオーラスかぁと思いつつも、朝から実家の母が来て、11時頃私の家から歩いて5分の父のお墓に行った。今日は墓地も大混雑で。
「さすがに今日は大変ですね」
「ありがたいことですけどね」なんてお寺のお姉さんや小坊主さんと挨拶をして樒を買った。
で、父のお墓に向かう通路を入ると、遠くからやけに立派な花が供えられてるのが見える。隣の家がお彼岸くらいは来たのかしら。そう思って近づくと…違う。うちのお墓だ。

父が亡くなって10か月。母は週2回、私は週1で墓参りは欠かしていない。母という人は無駄に計画的なので供え物や掃除のペースをイベントに向けてきっちり練るタイプ。お花だと何本か抜いて調整して次回まで持たせようとしていたのをちょっと枯れたくらいの時、お寺の人に処分された経験から、基本枯れない樒を使うと決めている。今回もお彼岸に向けて、木曜に買ったものにもう一束足して、彼岸中はちょっと豪華にと画策していた。

なのに。その樒が押しのけられるように、ものすごく高そうな花が供えられている。どん、とお線香もあげられたばかりの状態。そのくせ、この間墓参りした日の雨のせいで、墓石は汚れたまま。
来てくれた人がいたんだ、という喜びよりも、怒りがなんか湧いてしまった。

父という人はぶっきらぼうだけど面倒見がいい人ではあったので、そこそこ周りに人気があった。基本家族優先というスタンスの人でもあったのに、年末の葬式の時には想像以上に人が溢れて驚いたほどだ。
会葬御礼で頭を下げて回る私に何人もの女の人達が声をかけてきた。
「本当に、娘さんに失礼なんですけど娘みたいに可愛がってもらって…素敵なお父様でしたよね」
「お洒落で、冗談が上手くて」
そう言って泣いていた。
「ありがとうございます」
そんな風にお礼を言いながら、正直なところ思っていたのは、「うん、それは 娘に対する可愛がり方ではない」っていうつっこみだった。
そうして、自分よりも若い男の子や女の子が真剣な顔をして泣きぬれているのをずいぶん冷めた目で見ていた。

実際のところ、私は父が亡くなってから10ヶ月、1度しか父の死に対して1度しか泣いていない。
たぶん私は自他ともに認めるファザコンだ。基本、男の基準は父だし、両親は本当に家族としてお互いを尊重し合って一番に想い合ってきたということを知っている。そして、それはどちらかというと、親戚との付き合い方の中でも他の人間を立ち入らせないほどの特別なものだということを2人の発言で見せつけられてきた。
父が亡くなる4時間前。「ちょっと年越すんじゃないの?」と言った母に苦しい息の下、言った言葉は「ありがとね。しあわせだから」だったし、私には?と訊いたらひょいと手を挙げて「頑張れ」とだけ言ってにやりと笑ってみせたものだ。
だから、泣く理由がないのだ。父が満足して、自分で決めた最期だったことに泣く理由がない。1度だけ泣いたのは年明けに行った石井さんのライブで、父が子を想う「愛し子~Look what we made」を聴いた時。父がどんなふうに私と接してくれていたかを思い出して、温かい気持ちになって涙を零しただけだ。

元々、父という人も泣かない人だった。無駄なことはせず、実を取る人で。私が中学生の頃、祖母の葬式で誤球する父の兄弟や従姉妹達の間で、淡々と棺の蓋を閉め釘を打った。なのに、泣きながら祖母の頬を撫で、花を供える列にはまったく参加しなかった父。祖母が用事があれば、いつだって東京での送り迎えや品物の調達をしてあげていたくせに、必要以上に感情で関わらない。祖母もそういう人だったし、そういう父が好きだった。
「泣いて引き留めてもしょうがないでしょ、ちゃんと弔ってあげる方が大事だし」
それを私にだけ教えてくれた父が好きだった。
自分の気持ちの整理をつけるため相手のためにできることの全部はする。むしろ形から入る。けれど、感傷に流されてることはない。人当たりはいいけれど、自分と違う人を心のどこかで平気で切って捨て、自分はさっさと行動に移す、そんな潔さもある人だった。

父は自分の余命を知った時、すべてを自分自身で決めた。墓は私が家を買ったすぐ後の8年前に決めていたけれど場所の選定理由は、私の家から近いこと、住職が好きだったからというものだった。
「別に実家の連中とか友達が来やすくなくてもいいでしょ、2人が来やすいのが一番」
そう言ってニヤニヤしていた。周りにも、墓を買ったことを全く話していなかった。

彼岸というのは、来世の希求に端を発したものだという。先祖を供養し、功徳を積ませることで子孫の人生の糧にする。…家族の、為のものなのだ。
彼岸には家族の墓を参るのが当たり前、そういう家も多いと思う。それはともすれば、家族のための時間。

なら。この花は何だ? 家族が来ることを全く想定せず、きちきちに詰め込まれた花と線香。
私達の予定を完全無視して割り込んできたその存在に、感傷的な自己満足を感じてしまった。

たぶん、あの人だろう、と見当は付いた。
父のいた会社の人。病気になって休んでいた時、折に触れて見舞い、お母さんのケアもしていた。何でそこまで?と訊くと、アシスタントのその人が出て来れなくなると俺が困るから、としれっと言っていた。
けど、葬式で会ったその人は「家族みたいに大事にしてくれた」と言って泣きじゃくっていた。 「いないと困る」「淋しくてたまらない」と。
一度、墓参りに来たいというのでお墓を教えた。「変わった場所にされたんですね」と言うので、「母の出身地と私の家が近いからなんです。よく通っているので、いらっしゃる時は声をかけてください」と言っておいた。けれど、「お手を煩わせるといけないので」と予定の日にちの前日に来て、父が嫌いだった花を供えて行った。

今日の花もそう。父が嫌いなパステルカラーのぼんやりとした印象の花。

父の友人達は基本的に母に「明日行くから」と電話をして墓参をする。私と母に連絡をせず、出し抜くようにやってくるのはその人だけだ。

本来、家族の墓参をしてもらえるというのはありがたいことなのかもしれないけれど…そう思えないタイミングややり方もあるのだ。家族が守る墓は、家族のもので。家族をないがしろにするのは失礼なことだ。
供養というのは不思議なもので、パーソナルな感情がどうしても付きまとう。人と人との関係は他の人間にはわからないからこそ、どんなに自分にとって大事な人であったとしても、その人と一番心が近くにあった人の意思を尊重して関わることを大事にしたいと思っている。必要なら通夜の手伝いだってする。
そうでないなら…密葬なら行かないし、供養したいなら、自分の心の中でする。自分とその人二しかわからない方法が何かあるはずだから。

そう思っているからこそ、昨日供えられていた花と線香に腹が立った。

「どうする?」
「お父さん嫌いだったしね。お線香あげられないし」 
その行為は本当に失礼かもしれないけれど。
私と母は、目も合わせないまま花を捨て、線香を消す。そして、当たり前のいつも通りの墓参に戻る。

「じゃ、私でかけるから」
「お母さんも帰るわ」
別れた母からメールが来た。
『あんまり苛ついたから、帰りがけ、豆大福買った!』
 父の好物で、母が私の所に来る時に時々リクエストしていたものだ。

それでいい、そう思った。