mirror_box

スマさん世代の腐った文字書きが好きなものは好きと無駄に叫ぶ

裸の時代からの道を逆に辿る ー 追体験から向かう先を考える

いろいろと追体験が進んでいて、「Kis-My-Ft2」というグループの変遷にも興味が出て…そんな中、当然のように買わざるを得なかったのが「裸の時代 」と「Kis-My-Ftに 逢えるde Show vol.3 at 国立代々木競技場第一体育館 2011.2.12/Kis-My-Ft2 Debut Tour 2011 Everybody Go at 横浜アリーナ 2011.7.31」だ。

これらに向かう時間を逆巻にシングルの特典映像で辿っていると、ようやく外見以外に私を惹きつけてやまない彼のポンコツぶりやスタンスに対する理解ができてきた。
言葉に表すには、まだ咀嚼が足りないので非常に難しい。が、個人的に今の気持ちはいつか整理しなきゃものすごく納得いかないので、ちょっとだけ、試みてみよう。以下、まとまりなく長文となる。



「裸の時代」にあるインタビューが発表された当時、横尾渉という人の言葉は衝撃を与えたという。そんな話を聞いていた。

実際に読んでみて最初に感じたのは「まぁ、確かに衝撃だろうな」という感想だった。

だってそうだろう。多かれ少なかれ「タレント」…才能という言葉の英訳を職業とする人があそこまで吐き出す内容というのはちょっとない。何より、ずっと応援して愛してきたものを当の本人に「辞めようとしていた」「周りを馬鹿にしていた」と否定される言葉で表現されたのだから、裏切られた気持ちになるのは当然だろう。

でも、私が次に感じたのは、「これはいよいよ、横尾渉、面白いな」ということだった、


彼が持っていた矛盾や嫌悪・諦観は、タレントと呼ばれる自分の才能や魅力、さらには人との縁や運によって輝こうとする仕事をする人が多かれ少なかれ、感じる正直な気持ちではないかと感じる。
いや、タレントに限ったことではない。
誰のためにやっているのか、何のためにやっているか、仕事そのものが好きなのか、周りの人が好きなのか。

何か惹かれた原因があって携わっている仕事なのに、その思いを自分自身がまったく信じられない。けど、大事にしたくてたまらない。大事だからこそ、何か違うんじゃないかと思う。そんな「仕事」に対する自問自答は誰にだってある。今ですら、私自身も仕事に対して思うことがあるのだから、ものすごく、自然で愛おしく受け止めることができた。


幸か不幸か、こういう「裏切り」は、私にとっては横尾さんで2回目の経験だ。
キスマイにが好きな人にはどうでもいい話かもしれないが、前のエントリーで書いたように、私は20年来、ミュージカル俳優であり、今はシンガーソングライターという肩書を手に入れた石井一孝という人を追っている。その石井さんで同じ経験をしたことがあるのだ。今でこそ、むしろミュージカルへの愛を語り、教える立場になっている石井さんだが、今のキスマイぐらいの年齢の頃、横尾君と同じようなことを言っていた。

ミュージカルで歌う石井一孝に惚れたのに、「ロックが好き、ミュージカル曲はライブでは歌わない。俺はシンガーだ」そんな趣旨の言葉。どこでだったかはわからない。でも、ひどく残念に感じたことを覚えている。
じゃあ、あの頃なぜそんな人を応援し続けられたかといえば、彼を知った入口で「歌を愛するという気持ち」を芯に持っていると知ったからだ。

「タレント」を愛でる時には、いろいろな角度がある。見た目や仕事や性格や…私にとっての石井さんの場合、何より「歌うことを愛する姿」と「周りへの愛情の熱さ」が惹かれた原因だった。だから与えられた「そんなに好きではない仕事」の中から、その愛を育て、愛を醸成して、歌だけでなくミュージカル、芝居そのものをも愛して、少しずつ変化していく姿を見るのは、私自身が大人と呼ばれる年齢に至るにあたって、どうやって常に不可欠な楽しみであり、尊敬になった。

だから。芯を大切にしてできることをやり続ける。その先には、いろいろな「好き」や「嫌い」を超えてその才能が輝く場所があると思うのだ。そういう姿に私はたまらなく惹かれる。



横尾君に関して言えば、外見に惹かれたというのは、もう全く否定しない。ただ、それ以上に石井さんに惹かれた時と同じようなものがあるのは確かだ。

彼の芯が何かはわからない。けれど、彼を愛でる人が増えてきている現状によって、そこに確固たる「何か」はあるのだと私は信じている。それはもしかしたら、インタビューにあった横尾渉、ひとりの人として見て欲しかったのかもしれない」という言葉そのものなのかもしれない。

横尾君は「後悔」をして、「謝罪」をして「人生を捧げる」という言葉を使っていた。じゃあ、今のポンコツぶりに「人生を捧げる努力があるか」と、今の彼の姿勢を否定する人もいるだろう。
だが、たぶん、「努力」は問題じゃない、と私は思う。
「できることすべてで、Kis-My-Ft2に捧げる自分を見せている」、だから、あそこに至っているんじゃないだろうか。
どんな形でもいい。「自分を見て欲しい」という「芯」が彼の、ポンコツぶりやお母さんぶりの基盤となり、彼を愛する人を増やしているのだと感じる。でなければ、少なくとも彼を取り巻く環境から言って、あの言葉が「活字」という形で、だれにも止められることなく世に出ているはずはないから。

ずっと彼を追ってくることができた人を正直うらやましいとも思う。だが、つい最近、彼を見るようになった人は、それはそれでラッキーだ、とも感じている。
実際問題、「芯」に対する期待がずれていると、応援する人間にとってはひどくつらいことがある。
例えば、「歌が好きなのね」と思っていたら「歌が一番嫌い」、と言われたり、「あの役がすごい」と思ったら「あの時のカンパニーは最悪で、全然芝居なんてしたくなかった」と言われたら? そこまでではなくても「踊る姿が好き」だったのに、「歌手一本でやってくので今後絶対踊りません」と言われたら。応援できるだろうか。自分を鼓舞する力をもらえるだろうか。

ここ数日、時間を遡るように彼らの姿を追ってきた。そうして、今日ようやく休みだったので、2011年のデビュー発表の日に手を出す頃ができた。その後にある葛藤を知ったうえで見るので、どうしても思いきれなかったのだ。
確かに、心が痛む。というか、今を知らず、見ていたら絶対に「好き」にはなっていないと思った。
2013年のインタビュー前の彼の姿でも、そうだ。見た目は嫌いではないが何かが、まだ、足りない。しゃべり切れていない、一歩引いて見ている。そんなことのすべてが、単体では楽しみきれない姿だ。
でも、私は、今の彼の姿も知っている。だから、彼の変化がいつだったのか、何だったのかということを考え、その変化を含めて楽しむことができる。これが、「ラッキー」と思う理由だ。



どうしても忘れられない言葉がある。
「向かないといって仕事を辞める人がいる。だが、向き不向きは自分で決めるものじゃない」
最初に就職した時、上司に言われたことだ。
「生意気だとかそういうことではなく、自分が決められるのは好きか、嫌いか、やりたいかやりたくないか、だけだだから。嫌いなことでも実はやってみたら、なりたい自分への近道なことがある。向くというのは、正直な気持ちで、できることのすべてをやりきった時、見ている誰かが決めてくれる。…だから、思いを込めてできることをすべてやれ。そのうえで向かないことは、だれも求めはしない。自分の向き、が決まるはずだ」

上っ面にしかならない自己判断の向き不向きではなく、自分が正直でいられるかどうかで仕事を決めるべきだ。そういう意味だった。

本当の彼の正直な気持ちがどこにあるかはわからない。ただ、彼らの活躍が新しいステージに入ってきている今、彼の「向き」もきっと決まってきているはずだ。それが私は追いたいし、楽しみなんだと、強く感じた。





…………まぁ、無駄な妄想もあることは、まったくもって否定しない。だが、楽しむ存在があるのは、本当に幸せなことだ。そう、思う。