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スマさん世代の腐った文字書きが好きなものは好きと無駄に叫ぶ

しあわせに一番近い場所

久しぶりに実家に帰って、父の運転する車に乗っていていつもと変わらないはずの風景にふと驚く。

小学4年生の時から5年間通った地元駅前の学習塾。その窓に「テナント募集の張り紙がしてある。閉校だ。

当時、自ビルで1フロア4階建てのその塾は、小さな個人塾との違いを前面に売っていて、中学・高校受験向けの進学塾として2つ先の駅からも、有名校を目指す子達がやってきていた。私自身は、小学校から電車に乗って父の母校の私立に通っていたので中学受験はしていない。けれど、家から小一時間かかる学校のクラスメイトは、それぞれに近所の学習塾に通い始め、大義名分として一歩先の勉強が必要とされる私立生の常として、私も塾通いを始めることになったのだ。今にして思えば母は外部受験をさせたかったらしいが。

私が最初に行ったのは開校すぐの冬季講習。201教室だったのを強く覚えている。一番前の真ん中の席が指定されていた。それからしばらく「耕太」と一緒だった。初めてできる「近所の友達」はある意味新鮮だった。学校が違うというのも大きい。知らないこと、共通のこと、いつもわくわくしていた。

5年制になった春、「慎也」が仲間に加わった。こまっしゃくれたボンボンの「サトル」やら、お調子者の「ウツ」やら、…異常に仲は良かったと思う。クラス全員で先生にいたずらを消しかけたり、そのくせやけにまじめに意見を交換したり…いつも笑っていた。

先生も大好きだった。おにいさんのT木先生。T木先生の着ている白衣はいつも綺麗で、私たちが見にくいといえばチョークを8色買いそろえ、「わからんとは言わせないぞ」と挑んできた。いつも算数を教えてくれていた彼は思えば、小学校教師を目指していた大学生なのかもしれない。新入社員だったのかもしれない。初めて4年生の春期講習で国語の授業をしなければならなくなった時、5年生だった私たちに真剣に悩みを相談してきた。「おれ、できると思うか?」 「俺たちは受けてみたいよ、先生の国語」「…ぜったいなんか楽しんでるだろ」「あたりまえじゃん」「……」
がらっぱちのK谷先生、ちょっと理詰めでプライドが高いけど以外にお茶目でおしゃれなU野先生、国語が大好きだった私にとっては挑みがいのあるライバルでもあった。漢字でしりとりを始めて幅を広げてくれたのはK谷先生だったし、U野先生の教える説明文は明快だった。
そんな先生たちをからかう私たちを、苦笑しながら見守ってくれていたおとうさんのS山先生。銀縁眼鏡で少し猫背で、微妙ななまりのある口調が温かくて…いつも心配ばかりさせていた。
事務のお姉さんだってかわいかったのだ。ふわふわした髪、はっきりした目、大人っぽいのにあけっぴろげでおっちょこちょい。でも仕事は頼れるY沢さん。塾指定のヤッケができたとき、子供の安全のために貸し出すのは彼女の仕事なのに、「ちょっと派手でこっぱずかしいわよね~」と笑って見せた。

小学校のときの仲間が進学してやめて行っても私ともう一人が残った。そして、幼稚園のクラスメイトが来たり、女の子5人で自転車に乗って少しはなれたショッピングセンターに出かけたりした。
ああ、そうだ。中学にあがってからだ。講座には小学校時代「慎也」のクラスメイトだったという女の子がいた。知的でしっかりものの彼女の口から語られる「慎也」は児童会長でスポーツマンというヒーローだった。私は思い出していた。彼が風を引いて休んだ後、「学校の子がとっておいてくれたノート」を夕暮れの教室で書き写していたのを。「別に頼んでないんだけどさ」少し困った顔の彼に「やってもらって文句言わない」と発破をかけたのだ。もしかしたら…ノートをとってくれたのは、誰だったのか。

私の知らない世界。私だけが知っていた顔。今にして思えば、私がひどくこの塾での時間と…「慎也」を好きだったのかもしれない。
大学生になった夏、地元の駅で「耕太」に偶然会った。すべてを飛び越えて「よ!」と手を打ち合わせていた。そして、「慎也」にも再会して、「特別」と言われながら背伸びをした酒を飲み、何回かの長電話をもらい、気恥ずかしくて自分からは架けないまま、つながりが途絶えた。こわかったのだ。「特別な仲間」だったのに、「特別な女の子」になれないことが
。そんな柄じゃない自分にかっこつけておいた。

黒板も机もいすもなくなった教室が見える。すべてが過ぎ去った昔なのだ。
あの時ちゃんと失恋しておけば良かった。今までも踏み出せないばかりの気持ちがいくつもあった。でも、あの時、大切な思い出と一緒にできるタイミングで、気持ちに名前をつけていたなら…ちゃんと、失恋しておけばよかった。

今なら言えるのに。白い壁に黒板のあとが日にやけて、ぽっかりのこっていた。