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スマさん世代の腐った文字書きが好きなものは好きと無駄に叫ぶ

役者のこずるさ、まっすぐさ

キャストサイズ」がやってきた。

矢崎広君と村井良大君の対談。緋色の研究からこっち、矢崎君は全く別のベクトルで好きだったりする。
二人の対談形式の記事だったが、印象的な記述があった。

「村井君は…いい意味でこすい!と思った」
「どんな現場でもこずるくなって帰ってくる」

えらく、シビアな表現で、正直驚いた。そして彼らの話はこう続く。

「基礎を理解していないのに技術だけ身につけてしまっている…いつか化けの皮がはがれるかもしれない」
「基礎あってこその技術…基礎を身につけるのは、時間がかかるけれど技術はある程度やればできちゃう…技術って近道だけど段階を踏まないと最終的に痛い目を見る」

たぶん長いこと、舞台を見てきていて、いろんな役者さんがいた。それこそ、ミュージカルが多いのでこの話が一番近くにある。
若い彼らは技術ばかりがつくことを恐れている。でも、それはそれですごいと思う。技術すら身につけきれない役者もいる。基礎がどんなにできていても、魅力のない役者もいる。それは技術がないからだろう。技術で引き寄せられても10分後には忘れてしまうような人もいる。技術をコントロールできる基礎それが両方あることはたぶんスタートなのだ。

たとえば、レ・ミゼラブル。以前のいわゆる有名キャストには「基礎がないけど技術がある」人もいた。ただ、その技術は、彼らの魅力として「応援させる」というどうしようもない惹きつける力を持っていた。反面、もがいてもがいて両方を長い講演の中で蓄積していっている人もいた。

たとえば基礎で有名な劇団がある。でも、今の芝居を観たいと思わない。基礎におぼれて魅力がない。というか、「この人の芝居を観た」という気がしない。遊園地のアトラクションの感動どまりだ。

…何が基礎で、何が技術かなんて役者ではない私にはわからない。でも、受け止める観客として言えることは存在する。たぶん、どちらかだけでもダメで、蓄積しようともがく、まっすぐなスタンスが姿が観客をひきつけるのだと感じる。だからこそ、基礎がないことに気付いている彼らを本当に応援したいと思うと同時に、改めて感心した。

村井君の言葉はさらに続く。「役者が苦しみながら作り上げたものをのぞき見しているような感覚で見てほしい」

作品の世界を愛している言葉だと思う。彼のすごいところは受ける芝居。矢崎君が言っている、だれがどう来ても受けられる器用さ…いい意味のこずるさ。それはライブや客前でいかんなく発揮されることがある。ただ、そのスタンスはいつも受け身…吸収してさらに高みを目指す姿に見える。
作品の世界を存分に活かそうとした時、観客の働きかけは時としてその世界を壊す。熱狂的なファンがシリアスな芝居の最中に役者の名前を読んじゃう、そんな感じ。それが正解になる様式美としての娯楽である芝居もあるけれど…今回は違うのだろう。

覗き見のような神と求道者のようなそんな距離感で見る芝居は、心地いい。劇場という一つの空間で味わう醍醐味はそこにある。板の上と下という感覚が100%発揮されている。

…なんていうことを考えさせてくれる、そういう意味で矢崎君も村井君もえらいなぁというか、彼らの芝居が見られることが本当にうれしく、ありがたい。そんな記事だった。

芝居を見る醍醐味を、久しぶりに語りたくなった。